昭和44年05月10日 朝の御理解
御理解 第42節
「これほど信心するのに、どうしてこういうことができるであろうかと思うえば、信心はもうとまっておる。これはまだ信心が足らからのじゃと思い、一心に信心してゆけば、そこからおかげが受けられる。」
一心に信心してゆけば、そこからおかげが受けられるというおかげとは、どう言う様なおかげであろうか。その時に願ったおった事が成就すると言った様な事じゃないと思うですね。そこから受けられるおかげが有り難いのです。例えば私達の人生というものが、先々こういう運命の元にこういう風になるんだ。あぁなるんだと言う様な事が。先の事が分かるという事ですねぇ。先の事が分かるという事がもし出来るとしたら、もう本当になんというでしょうかね、味わいも何もない様な感じが致しますですねえ。
どうせそういう運命の絆といいうかそのう宿命というか、そういうものがその通りになって行くんだと言う様な事が分かるとするならね。あれあのう八木節の歌の文句にも有りますよね。鶴が亀に結婚を申し込んだというのです。そこで、亀が鶴に言うとります。「よう私の言う事を聞きない。世間の人が言う事には、亀は万年鶴は千年と言うじゃないかと。してみるとあんたの求愛は有り難いけれども、そんな訳にはいけん。後の九千年は後家暮らしをせにゃいかん」と言う訳なんです。
分かっておったらとても味けないんです実際は。亀は万年生きられる。鶴は千年しか生きられん。そこで結婚したら確かに後の九千年は後家暮らしじゃ。こげな先の事が分かっておるから、折角その結婚も出来ないという事になるのですよね。それが分からないところに楽しみがある。分かないところに様々な希望を抱く事が出来る。夢がある訳です。夢の無い生活といったのはこれはたいした事はない。ある意味合で達観は出来るかも知れませんですねぇ。どうせ人間てそういう運命神様が定めたもう運命。
そのもう運命のその通りになるのだから。いくらじたばたしても同じだと言った様に。そういう達観が出来るかも知れませんけれども、味気無いものだと思いますねえ。夢が無いものね。私はお道の信心の有り難い事はですねぇ、「これはまだ信心が足らぬからじゃと思い、一心に信心して行けばそこからおかげが受けられる。」という運命の破壊というですかねえ。良い運命がそこから展開してくるという事なんです信心は。
だからこの信心さえ続けていけば、どういうおかげが受けられるか分からん。しかもそれは決定的なものですからね。その金光様の信心のおかげというのは、絶対のものなんだから。それを自分の信心いかんによって、どこまで頂かれるかというところにです。その夢も有れば楽しみもある。しかもそれがもうそのう夢と言った様な夢の様なものじゃなくて、その確実にそれを頂いていけれるというところにです。信心させて頂く者の値打があると思うんですね。確かに人間にはひとつの運命というのが有りましてね。
だからそこから一歩も出られずに、一生を終わっていくという人が殆どなんです。そこで信心がある者、そりゃ信心はあってもここんところがですね。これはまだ信心が足りぬからじゃと一心に信心をしてゆけばですね。そこからおかげの受けられるという、そこからのおかげをですね。そこからの展開ということをさっきもいわれます。そこからの信心の展開いかんによってです。運命が変えられて来る。しかも限りないおかげにそれがおかげの元になって来るというところに、安心があ有り喜びがあり希望があり。
いわゆる元気な心で日々信心生活が出来る訳なんです。こりゃ私が北京に参りました初め支那語の勉強を致しました。もう一生懸命勉強しましたから一年後にはですね、もう支那の人達と電話でお話が出来る、もう電話でお話が出来る時にゃもう相当もう語学も進んどる時です。顔見てするのはゼスチャーでやりますからね。電話でちゅのは中々通じない。まぁ電話でまぁいうならベラベラお喋りが出来るようになっとった。なら一生懸命です、そのころ私はあのう支那で大変有名な話ですね。
エンリョウボルという人の書いた有名な書物があります。いわゆるエンリョウボルの運命論です。その人のをずぅと日本語に訳して、で私が何冊かにそれを全部書いてから、こちらに引き上げて帰って来る時全部持って帰ったんです。持って帰って確かに善導寺の渕上先生に貸したんですけれども。それっきりなくなっているんです。確かにあそこにあると思うですけどね。それをまぁあのう今日思わして頂くんですけどね。ちょうど日本の時代に直しますとね。豊臣秀吉が朝鮮征伐をした時時分のものです。
その時に朝鮮にそのう援軍を支那から出しております。その総司令官で来ておるがそのエンリョウボルです。その人は非常にそのう頭の良い人ですね、ある時に大変有名な易学の大家に自分に一生の易を占ってもらったんです。ところがですね。その一生六十何才で死ぬるところまでの間に、もうずぅっと克明にそのう易を立ててくれて、分るんですね、そのう易学とゆうひとつの学問を以てすると。人間のその運命がですね。もうちゃっとこういわば算数と同し事ですよ。
計算すると答えが出てくる訳ですよ。答えが出てくる。正確に。もういつの時に中学校に日本語に分かり易く言うなら、中学を出て中学を最優秀で卒業する。高校はどこの高校に行くだろう。大学はどの大学に行くだろうね。そして最高の学問を身につけて、就職はどこどこの県にして、県知事になって大臣になってという。いついつ結婚をしてところがそのあなたには、子供が恵まれないと言う様な事から、六十何才で死ぬるというところ迄、易学によって運命を占ってもらった。
ところがですねぁ。もうそれが一分一厘間違いのなくそれがそのう、いわば当たっていく訳なんですよね。もうどこどこの県知事になる時に、どれだけ給料がどれだけと言った様な事までが、易で占なってもらった通ぉりの事になっていく訳なんです。ははぁ人間はもうこれからどうにも出来ないもんだと。いわゆる達観したんですねぇ。だからそこをいかにまぁ今の言葉で言うなら、生活をエンジョイすると言ったような事を申します。いかに楽しゅう生活をしていくかという事に工夫すればよいんだと。
いらいらしてももやもやしても駄目だと。運命は定まっているんだからと言った様な人間も、そういう意味で出来た訳です。ある時どこどこで県知事をしておる時ですね、その時ある山で大変修行された。大徳のお坊さんが偶々その町に見えまして、そして対談をされる訳ですね。ところがそのお坊さんがそのエンリョウボルとお話をさして、たまがられた。あまりに博学であるという事で、もう医学の話からその哲学のの話、もうあらゆる当時の支那の最高の学問を全部身につけておる。
もうそれこそ一週間位。殆ど徹夜寝なしのようにして話したちゅうんです。もう意気投合して、本当に良い友を得たと。そして大体話が終わった時にそのお坊さんがエンリョウボるに言っておる事がです。こうして一週間もあなたと殆ど寝らんようにして、楽しゅうまぁいろんな世間様々なお話をさせて頂いたが。その話をしておる間にね。あなたの心に少しのかげりもなかった。どういうその修行をすればそういういわば淡々とした、そのう事が出来るのかと言うてお坊さんが尋ねたんです。
ところがそれに対してエンリョウボルが答えております事はです、どうせね人間にはその運命があって、その運命の通りにしかならないんのですから。いくらばたばたしたって、どうしたって出来ないという事を信じておる。そして現在私がその易を見てもろうて今日までです、その易を立てて貰った通りになって来ておる。だからここでじたばたしたところでもう仕方がないのですから、私の心はもうひとつのかげりもないのは、そういう訳でしょうというてその話しをしたと。
そしたらですそのお坊さんがですね、それこそカラカラと大笑して。笑いながらこれは自分は一週間もの間、馬鹿らしい事をしたと言うた。あぁたは素晴らしい偉い人だと博学で素晴らしいとこう、こういう人物はもう本当にこのしやく四州広しと言えどもです、こうゆう人物は他にはおるまい。良い友を得たとして喜んでおったけれどもです、あんたもその程度の人間だったかと言うって、そのお坊さんが笑うたという。それでどういう訳かと言うて、そのエンリョウボルが問い詰めるとです。
あなたは今どこどこ県に行く時にゃどういう地位で、どういうどれだけの給料をもろうていついつ結婚して、そして子供が出来ないと言う様な事言うておるが、給料はそれだけで良いのかと。そしてあんたのような素晴らしいんなら人の子孫を作らんでもいいのかと。子供がは出来んでいいのかと。それでもう諦めておるのかと。そりゃもういくら言うても仕方がないじゃないかとこう言うた。だからもうあんたはやはり凡人だと言うてその言うたというんです。
それで立ち上がろうとするのをエンリョウボルがそのお坊さんを引き留めて、んならそれから先にまぁだ何かがあるのかと言うて、その坊さんに教えを乞たのがです。信仰だったんです。信心というものはね。人間のそういう運命ずけられたものです、それが必ず良い運命に展開して来るのだと。あんたがそれであんた六十何才で死んで、それでよいのなら。あんた一生の中に自分の子供と言うのを知らんでその恵まれんで、それで良いのならばそれでよいけれどもと言われたもんですから。
その事を追求して聞いたところが、信心によってそれは出来ないはずの子供でも出来るんだ。生きられないところでも生きられるのだ。運命がそこから有り難い意味合いに於いて壊れて来る。そこから有り難い運命の展開があるんだとという話をしたという、お書物なんですよ。確かにそうなんです。ですからそのエンリョウボルのようにですよね。例えばそおのう達観が出来ておればね。まぁそれは良い事ばっかりですからね。頭が良いですから成功してこう。
だからもうどうにも仕様のないんだと。ものそのう分かればそれは達観をしておるようであって、それは実に言うなら寂しい事でありますね。私共が先々どうなってこうなって、あぁなるんだと分かったらさぞよかろうごとあるけれども。それはねそれは決して善いことではない。分かないところに希望があるんだと。分からないところに精進努力があるのだと。しかもそれがです。私は金光教の御信心をすれば、これがね現在よりも必ずそういう事がです、元になってそこからのおかげ。
そこからの展開というものはです。より有り難いおかげになって来るという事。どういう運命に会っておっても。だからねそこからの信心がなされなかったら駄目なんですよ。これ程信心するのにどうし、こんな事が起こったじゃろうかと、言うて悲観落胆しておったんではです。もうやはり運命は信心しておってもそれまでです。これはまぁだまぁだ私の信心が足りぬからだと。一心の信心をしてゆけばです。そこからおかげが受けられるとおっしゃるのは、私はそういう事だと思う。
いわゆる運命の展開なんです。定められておるところの運命。それに甘んじていくというのは信心の無い人の生き方であって、信心させて頂く者はその運命がですね。より有り難いものにです。展開していけれる働きをするのが信心であり、又は神様のおかげを受けるという事はそういう事だと。それにはです。これ程信心するのにどうしてこの様な事が起るのであろうかと、言う様な事ではない信心。
これは未だ自分の信心が足りぬからだと。一心に信心をしてゆけばですです。そこからおかげを受けられる、そこから新たな運命が展開して来るという事。一心に信心してゆけばそこからおかげが受けられるというのはそういう事だと。皆さん知って頂かにゃいけん。その為にですね。あのうそこからの信心が求められる訳ですね。それでまぁ私のまぁいつもお話しを致します。
終戦このかたの私の信心というものを聞いて下さり、又実際こう見てきて下さっておる皆さんが。それを思うて下されば成程そうだなぁという事が感じられると思う。様々な難儀がございました。信心しとってどうしてとあんなにと、言う様な事にも出会いました。けれども私の場合は、これはまだ信心が足りぬからだという信心が、そこから出来ておる。だからそのつどに私の運命というのは、大きく膨らむように大きなおかげの展開があっておる訳です。だからこの辺のところをですね。
しだこだで通っただけじゃ勿体ないですよ。だからその事がいかに困った事であっても、難儀な事であってもです。その事をです。はぁこれによって新たな運命が開けて来るんだと、という私は気持ちでですね。それを元気な心でです。言うなら有り難い心でです受けきって。一心とそこからもう一段高められた信心。白熱化してくる信心を身につけていく事によってです。
今日私が申します。今日四十二節のまぁ様々にこう頂いとりますが、今日の頂きどころというのは、信心してゆけばそこからおかげが、受けられるというおかげはね。その目先のその事じゃない。そこから新たな運命が展開してくる。良い運命がそこから開けて来るんだと。そういう運命が新たに開けてくる程しのおかげをです。頂かして頂かなければならん。それにはどの様な事の場合であってもです。
こげん信心するのとに、どうしてこげん事が起きるのじゃろうかと、言った様な口には言わんでも、心に思うような信心がです。みじんもあってはならない。どこまでもこれはまぁだ自分の信心が足りぬからだと、一心に信心を進めていけばと仰るのだから。進めて行く事だけを考えて行ったら良い、という事になるのじゃないでしょうかね。一心に信心してゆけば、そこからおかげが受けられるというのは、そういうおかげであると、私は思います。
どうぞ。
今の今のエンリョウボルのお話しですけどもね。その人は八十才近くまで生きとります。それからそのお坊さんの教えを頂いて、それから運命が新たな展開をして来た訳ですね。そしてから五十幾つになってから子供が出来とります。もう大変な運命が展開して来てですね。もうそれこそ文武両道に秀でる事になり、そういう支那から朝鮮に向けられる時の援軍の総司令官になる程しのようにですね、もう運命が変わって来てですねえ。六十幾つでもう一分一厘間違いなくきっちっと。
その例えば給料までいつどこどこを卒業するまで、いつ結婚するまでその通りになって来たその運命がですねぇ、その話を聞いてからその信心の修行によって、そういう新たな運命が展開をして来ておる。それはこれは事実その歴史上にある人の話しなんですかね。ですから確かに私はそうだとお互い分からしてもらい、そういう意味合いに於いて私共はですね。鶴と亀じゃないですけれどもですね。
そのう先が分かっておったら、それこそ空しいですけどもですね、私共の場合は分かっておるというのが、無限大に繋がっておるとゆう事なんですよ。限りないおかげに繋がっておるという事なんですよ。だからまぁだ余裕にしかならん。おかげの亡者しかならん。しかもそのおかげは自分の信心いかんによってはもう限りない、どこまで広がっていくか分からんというところに、信心の有り難さがあるようですね。
どうぞ。